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石森章太郎は昭和三十年、「二級天使」という作品でデビューします。 作品が掲載されたのはトキワ荘グループのまんが家たちが多数、投稿していたことで知られる『漫画少年』で、同誌が休刊するまでの十か月間、「二級天使」は連載されます。 当時のことを石森章太郎は、「中学から高校にかけての、ぼくの・将来の夢・は、小説家になること、だった」(石森章太郎「きのう・きよう・あした・」)と回想しています。 大学を出て新聞社に就職し、その間、文章修行をして時が来れば小説家になるという人生を考えていたそうです。 石森はまんがは「趣味として」描き続けたいと思っていたけれど、当時はまんが家が生涯の仕事になるとは誰にも想像できず、上京してまんがの原稿料で大学を出られるのではないか、 といささか無邪気な将来像を描いていたとも告白しますが、石森が「マンガも書ける小説家」を夢見ていたことはただ少年らしい無邪気さで片付けられない大きな意味を持っているように思えます。

実を言えば、手塚治虫少年もまた、太平洋戦争下に書いた習作『ロストワールド』の中で「これは漫画に非ず 小説にも非ず」とその冒頭に記していて、 手塚―石森という師弟が「小説」を強く意識していたことは案外と見逃されていますが重要な問題です。 もちろんその背景にはその時点でのまんがの社会的地位の底さに対する強い憤りがあったにしても、問題はただそれだけにとどまりません。 「まんが」という表現が「小説」を強く意識することは、やはり「まんが」にとって大きな影響を与えます。 それはただ「まんが」が「文学」のような主題や内容を描こうとするという意味とはまた別の形でまんが表現に作用します。

それはどういうことなのでしょう。

図―1は『二級天使』第二話めの冒頭の2P分です。実を言えば、『二級天使』は毎月8Pの作品で、この回は一話完結です。 二頁目の上段に3コマ分だけ、主人公の天使ピントが下界(人間の世界)で「十以上よいこと」をしたら「一級天使にして」もらえる、 というストーリーの基本設定が語られますが、しかし、たった8Pのまんがで石森は2頁を台詞のない「プロローグ」に費やします。 「プロローグ」は「竜神沼」で石森が自ら解説した映画的手法の一つですが、全体のページ数に比したらあまりにも長過ぎます。 全頁数の三分の一を過ぎるまでストーリーが始まらないのですから。しかし、この長過ぎる「プロローグ」は「小説」を志していた石森には必要なものでした。

改めて図―1を見ていただければわかるように、画面は精密なペン画によって構成されます。 写真のように正確に対象が描写されており、一つ一つは小さなコマですが、いわゆる透視図法によって描かれています。 こういう絵の描き方を「リアリズム」(写実主義)と言います。しかし「まんが」の絵は実は「リアリズム」ではありません。 それについては別の章で説明しますが、冒頭の二頁のプロローグはこの「リアリズム」的な作画法からなる様々な構図の風景を組み合わせることで「映画」のように、この作品を見せています。

読者はここで、あれ、「小説のように」石森章太郎はまんがを書こうとしていた、という話だったのではないか、とたった今、思われたでしょうが、 実は「小説のように」まんがを書こうとすると、「映画のように」まんがを書こうとすることは恐らくこの時点では石森の中で同じ意味であったと考えられるのです。

図―2は「二級天使」の三頁めの上二段分です。注意してほしいのは一段目から二段目にかけてです。それまで「リアリズム」によって描かれていた人物が3コマかけて「まんがふう」の絵に変化していきます。 まんがの見せ方としておもしろいアイデアで、実はこれから少し後、昭和34年に手塚治虫は「落盤」という短編で、一つの作品の中で絵柄が徐々に写実的になっていくというアイデアからなる短編を書きます。 しかし石森の場合は、この写実的な絵からまんが的な絵に変化するまでの二頁半で、この「まんが」を読者にいかに読んでほしいか、あるいはいかなる表現を行おうとしているのかを示そうとしているように思えます。

つまり「映画のようなコマの連続と写実的な絵」によって、 本来であれば表現されなくてはならなかったものを「敢えて」自分はこれから「まんが」の絵によって表現しようとしているのだ、と石森は読者に訴えかけているのです。 それはただ「映画のようなまんが」という意味にとどまりません。石森が「映画のように」まんがの冒頭を始めた時、それは作中の「リアリティ」の質を強く規定するのです。 まんがも映画も小説もあらゆるフィクションは「現実」と当然、違いますからあらゆる意味合いにおいて「現実にはありえないこと」が起ります。 つまり作中の「現実」のあり方は「現実の世界」とは異なるわけです。 「まんが」らしい絵は、作中の「現実」と読者の「現実」の違いを暗示しているわけで、 例えば「まんが」の絵より相対的に写実的な絵からなる「劇画」の方が作品世界も「リアル」なものだ、というのが一応の約束事としてあります。 もっとも、「魁! クロマティ高校」のように「劇画」の絵で「ありえないギャグ」を描くという方法もあるのですが、 それは「劇画」の絵から予想されるような行動をキャラクターはとらないというギャップが「笑い」となるからです。

つまりまんがの「絵」は、自ずからそのような「絵」で書かれれたキャラクターが作中の「現実」でどう行動するかを予想させるのです。 それは「絵」という要素が、まんがの中の作品世界がどの程度にリアルなものかを読者に伝えるからです。

石森章太郎がこの「二級天使」の冒頭でわざわざ示そうとしたのは、このまんがの中の「世界」はこれまでのまんがに比して「現実に近い」ということです。

そもそも「天使」などは現実には存在しませんから「二級天使」の設定は当然、「現実」離れしています。 善いことをしたら「一級天使」になれる、というのも今日に至るまでまんがやアニメの世界で繰り返されてきたモチーフで、 お話=フィクションにとっては「約束ごと」のような設定です。

つまり、「二級天使」の設定はそのまま「まんが」の絵だけを使って描かれたとしても、 「絵」に於いても「おはなし」に於いても「約束ごと」を正確に押さえていますから問題なく「まんが」として成り立ったはずです。 八頁という頁数を考えれば充分にそれはおもしろい作品だったと思います。

しかし石森はその時点で「まんが」が求められていたこのような「約束ごと」の殻を破りたいのだ、と意思表示するのです。 それは既に手塚治虫によって示されていた新しい途筋でしたが、しかし石森は「まんがの絵」と、手塚以降のまんがが書こうとしていた内容に実は大きな「ズレ」があることに気づいていたのです。 このズレに気づいたところが石森章太郎の鋭さだと言えます。 つまり、まんがの絵は「リアル」ではない、しかし、まんがはにも拘らず、「リアル」な内客、「現実」に近い人間を描こうとしている、と石森は感じていたはずです。

図―1を見ていただければわかるように、石森は「写実的」な絵においても充分な作画技術を持っていました。 つまり「写実的」な絵画表現と映像的なコマの組み合わせによる「映画のような」まんがを、石森が描くことは全く可能であったはずです。

しかし、石森は敢えて「まんが」の絵で、「リアルなものごと」を描こうとしたのです。 「劇画」や大友克洋のように「絵」を「写実」に近づけることを石森は敢えてしないで、「まんがの絵」という不自由な形をこの『二級天使』というデビュー作で選択したのです。

理由は二つ、あるはずです。一つにはそれが、この「リアルでない絵」で「リアルなこと」を描こうとすることこそが石森が受けとめようとした手塚治虫の方法であった、ということ、 もう一つは手塚―石森が描こうとした「リアルさ」とは、絵における「リアルさ」では決してなかった、ということです。 逆に言えば、いくら「絵」を写実に近づけたとしても、しかし、それでは表現し得ないことを石森は表現しようとしていたのです。

それは、何だったのでしょう。

「二級天使」をもう少し読んでいって、そのことを考えてみましょう。

この第二話は、「片目の魔獣」と呼ばれる虎が人々を襲い、村人がとうとう自分たちの村を棄てなくてはならなくなった時、三人の肉親を殺された少年だけが村に残り、虎と対決し勝利する、というプロットです。 天使のピントは、虎が少年に飛びかかった瞬間、少年に加勢して少年は肉親の復讐を遂げます。

八頁の作品で、既に二頁と半ばを「プロローグ」で費やしていることを考えれば、「お話」としてはこれだけで充分です。 さて、このプロットにおいて、天使のピントはいわゆる狂言回しですから、お話は虎に復讐する少年の視点からなされるのが普通です。 つまり読者は少年と同一化し、少年が目的を遂げるのを見て「よかった」と思うのが「読後感」です。しかし、「二級天使」は、そういう「読後感」を読み手に与えることを拒みます。

というのは、少年を助けることになるピントが、虎が人を襲うのは「虎狩り」に来た人間に「二匹のかわいい子どもと妻」を「人間たちの手で殺され」れ、 その復讐として人を襲っているということを知っていることが途中で明らかにされるからです。 「少年」が「虎」を襲おうとする理由と「虎」が人を襲う理由は全く同じだ、と読者は知った上で、このストーリーを追わなくてはならなくなります。

その「虎」と「少年」が向かい合うシーンが図―3です。向かい合う「虎」と「少年」のコマに天使のピントのアップが描かれたコマが組み合わされます。 「虎」には「虎」の、「少年」には「少年」の復讐の動機、つまり「正義」があります。しかし、二人は互いにそれを知りません。その一方で、読者はそれを既に知らされています。 読者には相方の「気持ち」が伝わっています。だからこそ読者は「少年」に一方的に感情移入できません。そして「虎」と「少年」の双方の事情を知ってしまっているピントの「葛藤」に読者は自分の「気持ち」を重ねます。 ピントは「少年」に「虎」が飛びかかる瞬間、「思わず」手を出してしまいますが、しかし、読者は「おれはやったゾ!」と叫ぶ少年(図―4)にもはや感情移入できません。

石森が描こうとしたのはこのような「リアルさ」です。「少年」にも「虎」にもそれぞれの事情があり、「気持ち」があります。 そして、それはどちらか一方が正しいという問題ではなく、その「矛盾」に対してピントは「葛藤」します。ポイントは二つ、あります。 まず、少年、虎、ピントの3つのキャラクターに「気持ち」があり、その「気持ち」が読者に伝わることでどのキャラクターの「気持ち」も相対化されていること。 しかも「ピント」の気持ちは「少年」と「虎」の「気持ち」が「復讐」にあるのに対して、そのどちらが正しいかわからないという「矛盾」を感じた「葛藤」です。 正しい主人公が目的をやり遂げていく動機もまたキャラクターの「気持ち」ですが、それより複雑な「気持ち」をここでは表現しています。 石森が表現しようとしたのはこのような、より複雑な「気持ち」、つまりキャラクターの「内面」だと言えます。

例えばキャラクターが「怒っている」「悲しんでいる」といった気持ちは、まんが表現にとって約束ごとです。図―5は手塚治虫が示した「顔」と「気持ち」の対応表です。 しかし手塚―石森が描こうとしたのはこのような単純な「気持ち」ではなく、思い悩む複雑な感情です。 図―3を改めて見るとわかりますが、石森は「まんがの絵」で描かれた、キャラクターの顔にリアリズム的な手法による影を書き込んでいます。 それは単純な「絵」では表現できないものを表現しようとしているからです。

このような「複雑な気持ち」つまり「内面」は、当然、映画によっても表現されますが、もう一つ、「小説」というジャンルもまた表現の対象としてきたものです。 石森が「まんがも描ける小説家」をかつて目指したことは「不純な動機だった」とエッセイの中では自ら笑ってみせますが、しかし「二級天使」の中には「まんが」によって「まんが」でないもの、 つまり「小説」や「文学」がこれまで描いていたものを敢えて「まんが」で描こうという強い意志があります。 そして、大切なのはこの「複雑な気持ち」を描くために「映画的手法」が改めて必要とされたことで、「少年」、「虎」、ピントが入れ替わるカットの連続や、 虎を殺して喜ぶ少年を遠くからピントが見つめる「遠近」のある構成は「少年」の「気持ち」とは別の位置にあるピントの「気持ち」を表現する技術となっています。

そのことは前号見た「竜神沼」の映像的手法が「動き」でなく「気持ち」を表現する技術として洗練されていることからも明らかなのです。

(第三講につづく)


【図ー1】石森章太郎「二級天使」(虫プロ商事)
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【図ー2】石森章太郎「二級天使」(虫プロ商事)
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【図ー3】石森章太郎「二級天使」(虫プロ商事)
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【図ー4】石森章太郎「二級天使」(虫プロ商事)
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